昭和43年05月06日 朝の御理解



 「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし」。「生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし」と。生神金光大神、天地金乃神と、申し上げて、私共はご祈念さして貰ます。そういう、この生神金光大神の生きた取次の働きというものを、頂くと言う事。生神様のお取次を頂いておると言う事。そこでその、生神様のお取次を頂いて、私共の心がこの生き生きとして生きて来なけれいけん。
 沢山の金光教の信者がおりましょうが、私はそのそうしてあの「天も地も昔から死んだことない」といわれる、天地の生き生きした働きを、自分の心の上にも生活の上にも現して行っておると言う様な人がどの位あるだろうか。金光様の信心しとりゃあ生きた神を信心しておると言う事には言えない。生き生きとした働きというものをこちらが感じ、又それを生き生きと現して行ってこそ、始めて生きた天地を拝んでおる。
 生神金光大神のお取次を頂いておると云う事が言えるのです。どんなに相手が生きておっても、こちらが死んでおってはね、生きた働きの展開というものがないのです。ですから生きておるからこそ痛いもあればまた、痒いもある訳です。天地が生きて御座るからこそ、暑い日もありゃ寒い日もある、降る日もありゃ照る日もあるのです。だからその降る事照る事、暑い事寒い事を生き生きとおかげに現して行くというか。
 おかげにしていくというか、又それをしていけるだけの心というか、生きた心というか、それが、あの為されていかなきゃいけんと思うんです。御理解五十八節に、「人が盗人じゃ言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、貰いに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯をせよ。」とこう。
 最後のこの「しっかり信心の帯びをせよ」と言う所を頂いておかんとです、盗人じゃと言われたからというて私は盗んどらんから、神様が見て御座るからと只辛抱しておる。乞食じゃと言われても私は貰には行かんのだから、乞食じゃないから神様が見手御座るからと辛抱しておるだけではですね、生きた展開になってこないし生きた信心の働きになって来ないのです。もう最後の所のしっかり信心の帯をしとらんと。
 私共の心が生き生きとしておると云う事は、この何と言うでしょうかね、中々元気、この元気があるとか張り切って御座るとかと、言う事じゃない様です。生き生きとした心というのは、やっぱり有難いという心だと思うですねえ。ですから、有難いという心が心の、何時も中にありますとですね、全てを生かして行く事が出来る。有難いという人の言葉の中から生まれてくる言葉は、相手の心までも生かします。
 所が只元気のいいのですねえ勢いのよか。それは相手を傷付ける事が多いいです。そこに今日はね、元気な心で信心せよと仰る、その内容というものは、成程その神様に打ち向こうてもう何もかにもこう、邪魔なものは蹴散らかして通る様な勢いも、そのやっぱそん中に内容としてあろうと思うですけれども、それによってですねあの有難いというものが得られると言う事だとこう思うんです。ね。
 ですからぐうぐうやってやると言う事だけじゃない。心が有難いという心でチッ生きた神様を現していくと。いうならその降っても照っても寒くても暑くても、その有難いという心でそれを受けて以降とこういう。是は全然感じの違う御教えに食物訓がありますね。食物訓の中に「何を食うにも飲むにも有難く頂く心を忘れなよ」とこう仰る。何を食べるでも何を食うでもです、有難く頂く心を忘れなよと言われるから、有難く頂こうと思うてもですね、中々有難く頂けんものもある訳です。
 自分の嫌いなものもありゃ苦いものもある。けれどもその苦いものを食べておって、自分の健康例えば胃が悪い人がですね、苦いものはいけないのに、苦いもの食べて胃が元気になる。そうしたら自分でこう有難くなれる。ですからその頂く時に矢張りあの、信心の帯をしとかんとです有難く頂けない。是は食物だけの事じゃない。私共世渡りの上においても、やっぱりその苦い思いをする事がある。
 例えば今ここに58節に申します様に、盗人じゃ泥棒じゃとあるいは乞食じゃと言われる様な例えば事であってもです、それをしっかり信心の帯びをして、しっかりした信心の稽古をさして頂いて、神様が見て御座るからというてその頂いて行く。そこからですね丁度五体に苦いものを食べて、それがその苦いもの食べたおかげで胃が強うなったと言う様にですね。様にその体の上に現れて来る様にその事柄にも生き生きとした展開というか、生きた働きというものがそこから生まれて来る。
 昨日ある方がお参りをしてきて、昨日ですから一日、二日前の事でしょう。ははぁある人からもうあられもない疑いをかけられる。もうその事を思うたらほんとに死んでしまおうというぐらいに術なかった。ね。それこそ金光様金光様で辛抱さして頂いておる内にです、疑われると言う事が死ぬ程に辛いことだ。けっして是から人を疑う様な事はするまいと思うた。そしたら先生そこからね有難いものが湧いて来たとこう言う。
 是はより生きた展開です。唯々例えば盗人じゃと、泥棒じゃと、乞食じゃと言われても、唯神様が見て御座るから唯辛抱しておるだけではなくて、そこに信心の帯がね、死ぬ程の苦しい事だった苦しい事だけれども、金光様、金光様でお縋りして行く内にです、是程に疑われると言う事は苦しい事だ。ね。是から人を疑う様な事はぁするまいと、こう心に思うたら、そこから有難いものが湧いて来た。
 そこから始めて、泥棒じゃと言われても、神じゃ、乞食じゃと言われても、いうならば有難いというものになって来た訳なんです。もうあ次にね有難いというものに、展開がなからなければならないと言う事です。そういう私は働きと言う物がなされてこそ、始めて生きた神を信心しておると言う事が言えるのじゃなかろうかと、こう思うです。金光様の信心しておるから、生神金光大神様のお取次を頂いておるから。
 成程天地は生きて御座る生きて御座る証拠に暑いも寒いもある。そういう神様を頂いておるのだからというても、自分の心に信心の帯がしっかりしてないとですねえ、死ぬ程辛い様な思いをしてもです時間が経つに従ってそれが、只漫然としてそのしまうだけでしょう。只腹が立ったけれどもそれが自然と直ったというだけの事でしょう。それだけの事ところがこちらが生きた信心の帯をしっかりしておりますとですね。
 ちょっと時間は掛ったに致しましてもです、是から人を疑う様な事はするまいと言う様な、生きた働きになって来た。そしたら、次にはどう言う事に成って来ておるかというと、そう思わして頂いたら、次には有難いものに成って来ておる。それをお取次ぎさして頂いた私がです、おかげを頂いたねていうて、それを取次ぎさして頂いた私の心まで、生き生きと有難く成って来る。
 その生きた有り難いが、生きたものって言う物に、その様にして次々と生きた働きをして行く物なんです。只生きた神様がいくら見て御座ったって(笑)生きた神様がいくら知って御座ったところで、こちらの心がね、生きとらない。信心の帯をがしっかりしてないとです。そげん時に、それこそ生き生きとしてですたい、生き生きとしてじゃなくてから、それこそ喧嘩腰で。
 「私がいつ泥棒したの」というて、コテンコテンにやりかえる様な事じゃろうと思うです。だから、そう言う様な心が生き生きした心じゃあないと言う事。元気な心で信心しようとしよるけども、そういう意味合いで元気のよかっとは違う、信心とはそれからの展開というものはね、まあだ限りがなかろうと思うんです。自分自身の心の中におかげを受けたと、受けるというありがっそのなら例え。
 もう本当に疑われると言う事が、この様に苦しい事であるから、これから人を疑う様なことはするまいというその生きた心で受けて見る所にです、もう次に神様が有り難いものを、もう与えておられます。いわゆる生きた天地と生きた心とが交流しとる。そこに天地の喜びが、自分の心ん中へ伝わって来るんです。ですから、これからの展開というものも限りがないんです。
 それから受けていくおかげというのは、生きた働きというのがなされてくるわけです。  (沈黙)
 何を飲むにも食うにもあい有難く頂く心を忘れなよと。ですから是は食べ物だけではない、全ての事をです、有難く頂けれる、いやそのり難く頂く為に時間は掛っても、時間は掛っても、そこにしっかり信心の帯びがでけておると、それが効果を奏して来る。その苦かったもの、嫌だったものがです、いよいよ自分の信心の血肉に成って来る、というおかげに展開して来る様にですねぇ。嫌な事を言われた。
 その事がです例えば死ぬ程に辛い苦しい事であっても、それが次の生きた展開になって、是が天地に通うのであろうと思われるように有難く、有難いというものが予期しなかったものであると。けれども予期しないものが、自分の心ん中に有難いものとして流れ込んで来る。その有難いものがです、次の生き生きしたおかげの展開に、又続いてくるのです。いうなればです。
 そういう私どもは日々、そういう天地が生き通しに生きて御座るのですから、私共のおかげも生き生きと、生き通しに生きとらなければいかん。生きておるのが当たり前である。所が私どもの場合はです、どこへね自分の心の、生きていない証拠に、人の心までも傷付けたり、人の心まで殺したり、いわゆる肝心要の、もうここまで来ておる、来ているおかげまでも、そのおかげが回れ右して向こうに行く様な結果になってしまい、しまっておる。惜しい事である。
 目の前に来ておるおかげをもう頂ききらん。うん惜しいでしょうしっかり信心の帯をして、そして日々の全ての事が受けられるおかげと、その時は信心不足修行不足ですから、しっかり信心の帯をしておるようでありましても、その時にはほんとに死ぬ程に辛い思いをする事があるかもしれん。けどもそこん所を生神金光大神様とこうお縋りさして頂く所にです、翻然と自分の心の中に感じさせて頂く事が出来る事が有難い。
 それが、次の生きたおかげの、働きというかね、おかげの展開になって来る。どうぞひとつ、全ての事をですね、ほんとに合掌して受けると言う事は、有難く受けると言う事。けれども、実際問題としてです、どげん考えても有難く頂けない、ほんとに泣く程に辛い事もあるって。ね。けども、神様が知って御座るけんというだけ位な事でですね、あの辛抱しとったんじゃあ、なぁにもならん。
 悪すると、あんな事言われたから、一遍な自分も言うて返さにゃ、と言った様なものしか生まれてこない。自分も傷つけられたから、一遍は切り返してやらにゃでけん、というてその、もう似てもおかげを頂く心とは、もう似ても似つかない様な事さえ感じる様な事であると、もしするならいよいよその、人の心はもう死んでおるのであり、生きたものに継ながる筈はないのである。時間は掛ってもそこに生神金光大神様にと。
 お縋りして行く所からそれがいやその、食べ物であるなら食べ物がです段々体に効いて来る様に、そしておかげでと言う物に成って来る。おかげでこう言う事だけはもう、人を疑う様な事だけはせんで済む様な私になれたといやもう疑う様な事はするまい心にそういう、まあ働きがですねもう神様と次の交流にが始まる「生きた神を信心せよ。昔から天も地も昔から死んだことなし」と。それにはこちらの心自体が生き生きとしておらなければならない、しっかり信心の帯をしとかなければならない。
 それは只普通でいうこうまぁあの人中々元気もんじゃからと言った様な、元気な心じゃあいかん是ならもうやりやりやって喧嘩どんするだけの事。信心でいう元気な心というのは決してそんなもんじゃない。そこん所をです私は有難い心とこう申しました。その有難い心で受けて行く。けどもそれが本当に実際問題としては。有難く受けられない様な事もあるけれども、そこをしっかり一段と信心の帯をしてです。
 お縋りして行く所に、只今その例話を申しました。その方の様にですね、おかげで自分自身が、その事によって改まる事が出来るだけではなくて、そこからです。そこからどっから湧いて来るか分からん、有難いものに触れて行く事が出来る。その有り難いというものが、生きた天地との交流である、生きた自分の心との交流である。そこから展開してくるおかげというものは、もう限りがないということ。
 だからそういう一つの心得とか、心掛けと言う事をですね、私何時も忘れてはならない。でないとここまでもう側まできとるおかげがですね、おかげの方が回れ右してしまう様な事では、惜しい事である。生きたお互い、天地、生きた取次を頂いておるのでございますから、生きた働きがお互いの、心の上にも家庭の上にも職場の上にも、生き生きとして現れて来るようなおかげを頂きたいと思うんですね。
   どうぞ。